情報の正確性の確保:一次資料と反証可能性の重要性について。

Q.情報を集める上で重要なことって何かある?
A.1つはできることなら一次資料にあたることだと思います。あとは科学か非科学かを決める1つの要因として「反証可能性の有無」を確認するという方法がありますが、これが個人的にとてもオススメに感じています。

 

よくテレビや新聞、ネットや雑誌、本でも何でもそうですがとても情報が多くて大変に感じることはないでしょうか。

また時には1つのことに関して反対のことが書いてあったりと結局どっちなの?と混乱することはないでしょうか。

私はしょっちゅうあります。(笑)

そんな数ある情報の中で取捨選択するのに何か良い方法はないかなと苦労しますが1つ、個人的にオススメの方法を紹介したいと思います。

 

それは情報の「反証可能性の有無(情報の検証が可能か)を確認する」というものです。

 

当然ながら別に私のオリジナルなわけはなく、これはカール・ライムント・ポパーというオーストリアの哲学者が唱えた「批判的合理主義的科学」、「反証主義」などと呼ばれるものです。

 

ざっくりと要約すると…

 

ある主張があった際に

その主張に反証する余地があればそれは科学的であり、反対にその主張に反証する余地がなければそれは非科学的である。

というものです。

 

人によっては、「ん?」と思う方もいるかもしれません。

反証する余地がない方が真理であり、正しくて科学的でないの?と感じる方もいるかもしれません。

 

それは反対なのです。

 

カッコよさやわかりやすさで言えば、「〇〇が真理である!」と言い切った方が聞き手もすっきりとします

 

しかしここで注意したいことがあります。

それは…

反証可能性がないものは、ただの”同語反復”となってしまい、何も言っていないに等しい場合があります。

 

同語反復とは、論理学ではトートロジーと呼ばれ、解釈に関わらず常に真となる論理式のことを指します。

 

例えば「父親は男性である」、「鳥は鳥類である」といった内容がトートロジーになります。

 

…見てのとおり同じ内容を言っているのと変わりません。

 

確かに父親は男性ですし、鳥は鳥類であり反証することは不可能ですが、これは同じ意味のものを言葉を変えて言っているに過ぎません。

 

何よりも、それを言われたところで、、、ってなりますよね(苦笑)。

 

まあここまでくると極端かもしれませんが、反証の余地がないものは全く意味のない場合があります。

 

また反証する余地がなければ、その内容の良し悪しを判断する基準(モノサシ)もないためどう評価すれば良いのかも困るといった問題点もでてきます。

 

こういう点を踏まえると何か情報があった際に

その情報が検証できるかどうか

が非常に重要になってきます。

 

例えば私はブログを書く際はなるべく参照した資料を記載しています。

そしてあくまで私のブログの内容はその参照した資料が正しい(ある程度信頼性のあるもの)と仮定した上でブログを書いています。

 

逆に言えばそういった性質上、例えばですが私のブログ内容を胡散臭く感じておかしいなと思った際にそれを指摘する方法は簡単で

  • その参照した資料自体が間違っていることを証明する。
  • その参照した資料の私の解釈が間違っていることを証明する。
  • その参照した資料を覆すような妥当性の高い別資料を提示する。

などといった方法があります。

 

いうなれば私のブログ内容は、その引用や参照しているものが本当に正しいのかを”検証”することで簡単に批判することができます。

 

私自身、何かそれらしいことを書いてある本や話している人がいた際にそれが本当に正しいかの判断ができない理由の1つとしてこの“検証”ができないという問題があったことに気がつきました。

 

様々な前提を置いていたり、既知の事実のように書いているけどその根拠ってどこなのかな?

 

といった感じで腑に落ちないことがずっとありました^^;

 

またその他に私の実体験を少し書かせていただくと、、、

とある時にある有名な人が運動に関して情報発信していたのをたまたま見ました。

そしてその内容の一部が私が知らなくてかつ意外に感じたことを説明しており興味を惹かれました。

 

加えてその人はありがたいことに根拠としていた英語論文のURLを載せてくれていたので、実際に私はすぐにそれにアクセスして読んでみました。

 

しかしその論文をよく読んでみると、、、

 

私の英語読解が間違っていなければではありますが(笑)その人が勘違いして読んでいたであろうことがわかりました。

 

というのも、その方自体は公開されている経歴上は医療職でもなければ過去に運動についてや解剖・生理学といった基礎医学を学んだ人ではないので、そういう人であれば勘違いしやすい、もしくはしてもおかしくないであろうといった内容でだったからです。

 

そうした少し細かい内容だったので悪気があったわけではないと私は思っています。

 

事実、職業柄普段から運動に携わり勉強し、現場でも運動指導をしている立場からしても少し違和感を感じる程度であり、私自身もその好奇心が後押しし一応調べてみようかなといった感じに過ぎませんでした。

それに健常者の運動であればその間違いは比較的些細なことであり、そんなに問題になるような内容でもありませんでした。

そもそも間違いというよりは間違い50%、勘違い50%程度といったものでした。

 

ただ私のように運動器障害を持った人と普段関わらせて頂く身分としては細かいことですが、その微妙な差や勘違いは避けたい内容のものであったため確認してよかったなと感じました。

 

しかし、誤解のないように補足すると、私はその方に関して悪い気持ちはありません。

 

自分が新しい情報を知るきっかけになっただけでなく、

何よりもその根拠とした英語論文を載せてくれていたので、私の中でしっかりと”検証することができた”ことが何よりありがたく感じました。

 

このように根拠を提示することは批判されやすくもなりますが、反対にそれを嫌がって根拠を曖昧にしたり、偉い人が言っていたからといった安易な感じに流れてしまっている情報発信と比べれば、圧倒的にその人のことは評価できます。

そのため信憑性のある情報を得る1つの方法として反証可能性に着目することは有益であると実体験からも思いますし、取り入れることは個人的にオススメできると思っています。

 

まとめると、

 

ある情報や主張があった際にそれが何よりも絶対的な真理であるといった反証可能性のない(検証できない)ものではなく、

その主張が反証可能性がある(第3者からいつでも検証することができる)状態にも関わらず、現在も反証されていない情報

というものは様々な批判に耐え切っていることを意味しており、暫定的ではありますが現時点では支持するだけの高い信頼性を置いて良い情報であると考えられます。

 

そういった情報を収集することでなるべく確度の高い結論を導いていけると良いなと私も思います。

 

というのも偉そうに書いている私がそもそもまだまだ未熟なので気をつけたいところです。

自分に言い聞かせる意味も込めて(笑)

 

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